続いて孫子の作者と推測される孫武の事を書きます。
前回のコラムに書いた通り、中国春秋時代(紀元前5世紀ごろ)に呉王(ごおう)・闔閭(こうりょ)に将軍として仕えていました。
呉は三国志の呉とは違います。
揚子江(江水)の南に位置するところです。呉の下が越という国です。
呉越同舟という言葉はこの呉と越を言います。
前回のコラムで、この孫子の作者とされる孫武の事が史記に書かれていると書きましたが、本当に少ししか書かれていません。
闔閭が楚(呉の西で、揚子江の上流。四面楚歌の楚)のエイという都市を攻め込もうとした時に進言したのを見るだけです。
孫子呉起列伝という史記の別冊に載っているそうですが読んだ事が無いのでわかりません。
十八史略(じゅうはつしりゃく)などには多少書かれていて、孫武は王の命で愛妾二人を隊長にした部隊を編成し、訓練を行った際に指示に従わない愛妾を斬ったという逸話があります。
孫武の用兵の才が高く評価され、正式な将軍に任命されたとされています。
史記には闔閭の臣下として孫武より伍子胥(ごししょ)という人物が特に優れた人物として紹介されています。
伍子胥の事はここでは詳しく書きませんが、伍子胥の忠告に従わなかった呉王・夫差(ふさ:闔閭の子)は越に滅ぼされることになります。
一度は越に勝利した呉ですが、越王・勾践はその時の敗北を忘れないように肝をなめて苦さを味わい、敗北を思い出したといいます。
これが臥薪嘗胆(薪の上に寝て胆を嘗める)の語源となっています。
孫武の事より臥薪嘗胆の語源を言いたかったコラムでした。
参考文献:史記 司馬遷
十八史略 曾先之