第60話 孫子 2 孫武

続いて孫子の作者と推測される孫武の事を書きます。

前回のコラムに書いた通り、中国春秋時代(紀元前5世紀ごろ)に呉王(ごおう)・闔閭(こうりょ)に将軍として仕えていました。
呉は三国志の呉とは違います。
揚子江(江水)の南に位置するところです。呉の下が越という国です。
呉越同舟という言葉はこの呉と越を言います。

前回のコラムで、この孫子の作者とされる孫武の事が史記に書かれていると書きましたが、本当に少ししか書かれていません。

闔閭が楚(呉の西で、揚子江の上流。四面楚歌の楚)のエイという都市を攻め込もうとした時に進言したのを見るだけです。
孫子呉起列伝という史記の別冊に載っているそうですが読んだ事が無いのでわかりません。
十八史略(じゅうはつしりゃく)などには多少書かれていて、孫武は王の命で愛妾二人を隊長にした部隊を編成し、訓練を行った際に指示に従わない愛妾を斬ったという逸話があります。
孫武の用兵の才が高く評価され、正式な将軍に任命されたとされています。

史記には闔閭の臣下として孫武より伍子胥(ごししょ)という人物が特に優れた人物として紹介されています。
伍子胥の事はここでは詳しく書きませんが、伍子胥の忠告に従わなかった呉王・夫差(ふさ:闔閭の子)は越に滅ぼされることになります。
一度は越に勝利した呉ですが、越王・勾践はその時の敗北を忘れないように肝をなめて苦さを味わい、敗北を思い出したといいます。
これが臥薪嘗胆(薪の上に寝て胆を嘗める)の語源となっています。

孫武の事より臥薪嘗胆の語源を言いたかったコラムでした。

参考文献:史記 司馬遷
十八史略 曾先之

 

第59話 孫子 1

孫子つづきで行きたいです。
かじです、こんにちわ

幾度かコラムに登場する「孫子」、今回はこれを解説します。

孫子はいわゆる兵法書で、13篇からなります。
中国でもっとも古く、もっとも優秀な兵法書と言われています。

著者は確定されておらず、中国春秋時代(紀元前5世紀ごろ)に呉王(ごおう)・闔閭(こうりょ)に仕えていた孫武という人だとされている。

また、別な説では紀元前4世紀頃の中国戦国時代(紀元前4世紀ごろ)の斉の孫ピン(月に賓という字)という人だという説もある。
ピンというのはピン刑といって刺青をして鼻を削がれる刑で、この刑を受けたので孫ピンと呼ばれた。
詳しい話は後日。

孫武説には史記などに記載があるが簡単に記されるだけなのでそのまま孫武とするのは疑わしい。
孫ピン説も1972年に発見された竹簡本の資料により、孫ピン兵法が発見され、孫子はそれ以前の資料だとするので孫ピンの個人の書とするのは難しい。
Wikipediaなどではこの竹簡本を根拠に孫武と確定しているが、そもそも一人の著作物と考えてしまうのは今の時点では無理な話で、長い年月で何人かで完成されていったものと見るのが自然でしょう。

「孫子」の内容は先に述べた通り、13篇に分かれます。
第一 計篇 :戦争の前に熟慮すべきこと
第二 作戦篇:戦争の前の軍費、動員補充
第三 謀攻篇:謀略。戦わずして勝つ

第四 形篇 :攻守の態勢
第五 勢篇 :態勢から発動する軍の勢い
第六 虚実篇:戦争の主導性の把握

以下、実践への配慮
第七 軍争篇
第八 九変篇
第九 行軍篇
第十 地形篇
第十一 九地篇

第十二 火攻篇:火攻め
第十三 用間篇:スパイ

以上のように組織的な意図で書かれています。

今回はこの辺で。次回は続きです。

 

第58話 武田信玄(晴信)

また間が空きました。昼休みに書けなくなって厳しいです。
かじです、こんにちわ。

前回の上杉謙信にちなんで今度は武田信玄で行きましょうか。
そもそも今の大河ドラマは風林火山ですよね。

謙信と信玄、戦国時代を知らなくてもこの二人は誰しも知っているでしょう。
川中島の戦いがもっとも有名でしょうか。

「風林火山」は孫子の兵法書に記された

故にその疾きことは風の如く、
その徐(しずか)なることは林の如く、
侵掠することは火の如く、
知り難きことは陰の如く、
動かざることは山の如く、
動くことは雷の震うが如くにして、

という語句を略したものです。
信玄もこれをもとに軍旗に「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と書いて戦いました。

「敵に塩を送る」もそうですよね。

「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」という言葉も有名です。
信玄は人心の掌握に重きを置き、生涯天守閣を持つ城を作らなかったと言われています。

武田二十四将といわれ、特に評判の良い武将が有名だが、このように人材が豊富なのも信玄の特徴だと思います。

為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ